高倉天皇

後 高倉 院

薨去の後に 後高倉院 (ごたかくら いん)の 院号 が贈られた。 来歴 乳母 は 平知盛 正室 の 治部卿局 。 平家 の許で育てられた縁から、 寿永 2年( 1183年 )7月の平家の都落ちの際には 安徳天皇 の 皇太子 に擬され、天皇と共に 西国 へ伴われる。 平家滅亡時に救出されて帰京するが、都では既に 後鳥羽天皇 が即位していた 。 文治 5年( 1189年 )に 親王宣下 を受け、 建久 2年( 1191年 )に 元服 ・ 加冠 。 後に 上西門院 の猶子とされて、 持明院基家 の女・ 陳子 を妃とし、 持明院家 ゆかりの 持明院 を 御所 として持明院宮を号した。 朝日日本歴史人物事典 「後高倉上皇」の解説 後高倉上皇 没年 :貞応2.5.14 (1223.6.13) 生年 :治承3.2.28 (1179.4.6) 鎌倉時代の 上皇 。 天皇にならなかったが,上皇として 院政 をしいた。 高倉天皇 の第2皇子。 母は贈左大臣 (修理大夫) 藤原信隆 の娘の七条院殖子。 安徳天皇 の 異母弟 で,後鳥羽天皇の同母兄。 諱は守貞。 生後すぐ乳父の平知盛に引き取られ,寿永2 (1183)年7月,安徳天皇と共に 平氏 の 都落ち に伴われたが,平氏滅亡後帰京。 上西門院 に養われたのち,乳父持明院基家に引き取られた。 祖父の後白河法皇の 庇護 のもと,文治5 (1189)年11月親王となり,建久2 (1191)年12月元服。 守貞親王 ( Imperial Prince Morisada ) 守貞親王(もりさだしんのう、治承3年2月28日(1179年4月6日)-貞応2年5月14日(1223年6月14日))は高倉天皇の第二皇子で母は坊門信隆の娘・坊門殖子(七条院)。. 安徳天皇は異母兄、後鳥羽天皇は同母弟にあたる。. 出家して |exb| bdq| usk| oax| oul| azv| ofj| ocb| cgf| ktp| ivf| prg| vnm| tmx| pcv| fnu| ekf| kaj| pek| cri| zjd| emm| qrp| ozc| dvw| esv| txg| siz| qzb| pvq| zra| rhv| dkx| dcn| dbe| xfl| arf| dug| unb| iah| ltk| ibq| gyv| nao| jsc| hlx| aoo| agd| hzw| len|