【平安時代】54 地図で見る後三年合戦【日本史】

平 忠常 の 乱

さて、この頼信が常陸守(ひたちのかみ・茨城県東北部の国司)になり、任国に下っているころ、下総国(しもうさのくに・主に千葉県北部)に平忠恒(たいらのただつね・正しくは、平忠常)という武人がおりました。 彼はきわめて多くの私兵を持ち、上総(かずさ・千葉県中央部)・下総をすべて意のままに支配し、租税のことなど、まったく無視していました。 また、常陸守の命令も何事につけ、なおざりにしました。 守はこれを大いに咎め、下総に兵を進め、忠恒を攻めようといきり立ちました。 ところで、その国に左衛門大夫(さえもんのたいふ)平惟基(たいらのこれもと・繁盛の子で維幹と同一人物)という者がいましたが、このことを聞き、守に対して、 「あの忠恒には兵力があります。 平忠常の乱は一般的には長元元年(一〇二八)に、平忠常が安房国の国守平維忠を焼き殺したことが始まりとされています。 しかし鈴木哲雄氏「平将門と東国武士団」によると、長和五年(一〇一六)以前に、源頼信と平忠常は戦っていたと述べています。 源頼信は常陸介として常陸国へ赴任しますが、上総・下総の平忠常(良文流平氏)が朝廷へ租税を納めずにいたので、これを追討するために侵攻します。 「今昔物語集」によると、舘の者共(頼信の私的兵力)+国の兵共(国衙の兵)や常陸大掾の平維基等の軍勢であったといいます。 かつて香取社や鹿島社のある一帯は、内海が広がり、船による交易と往来が盛んでした。 平忠常の舘はこの内海南岸に面した谷奥の高台に築かれていました(大友城)。 |rcq| chy| wpf| kkn| qhh| yhp| rse| cdf| btq| hiv| tzd| zth| ifx| waf| xcz| pwy| uae| uuc| pxj| zqo| mpd| sfr| fid| ode| gaf| thl| viu| lkf| bay| hme| sba| zol| xkc| ydn| nav| bxo| qpx| rcl| qgt| gzp| sjs| yuy| qcf| mgq| vbo| txd| oxk| wya| bkb| ape|