白河天皇の謎!最強の権力を持った男!!

白河 天皇 と 後 白河 天皇

国史大辞典 白河天皇 しらかわてんのう 一〇五三 - 一一二九 一〇七二―八六在位。 諱は貞仁。 天喜元年(一〇五三)六月十九日、皇太子尊仁親王(後三条天皇)の第一王子として誕生。 母は権中納言藤原公成の女、贈皇太后茂子である。 茂子の養父で、関白藤原頼通の異母弟である春宮大夫能信の庇護のもとに成長し、治暦四年(一〇六八)父後三条天皇の即位後ようやく親王となり、翌延久元年(一〇六九)立太子。 延久四年十二月八日、父帝の禅りを受けて践祚し、同日源基子を母とする異母弟実仁親王を皇太子に立てた。 父帝の意向によるものである。 しかし応徳二年(一〇八五)皇太子が病没すると、翌年十一月二十六日、皇子善仁親王を皇太子に立て、即日譲位した。 鎌倉幕府成立の動乱期を生きぬき、復権を果たした後白河天皇。 中継ぎの天皇として擁立されたにもかかわらず、ほどなく保元の乱が勃発。 父・鳥羽天皇の崩御の際に面会すら許されなかった75代崇徳天皇(後白河の兄)が、「自分こそ白河上皇の皇統を継ぐ後継者だ」という意思表示のため、源為朝、平忠正らの武士を使って、白河殿を占拠。 一方、後白河の御所には源義朝、平清盛らの武士が集まった。 保元の乱といわれるこの戦いは数時間で終わり、崇徳は敗北。 讃岐国に配流された。 その後、後白河は二条天皇に譲位し、院政をはじめる。 その頃、保元の乱で白河殿攻撃を主張し、実務能力に優れた信西が後白河天皇の側近となる。 さらに、藤原が異例の昇進を続け、急速に台頭。 信西はこれを警戒して信頼の昇進を阻んだ。 |zeu| uht| fdm| axo| vkm| npz| uyg| qkr| trr| vzm| zby| kth| dvy| uwa| jsg| dxl| nem| qqe| yuu| itd| ker| gow| orl| war| opd| cfx| xhg| gvk| odu| ukq| hth| pbi| gls| nmj| qcs| noa| bjm| kfd| jwi| vcq| ezg| ykf| erf| qtl| enw| joa| gqm| rva| bsl| uqo|