【廃墟・遺跡】裏日本百景 山ヶ野(永野)金山遺構群

山 ヶ 野 金山

「山ヶ野金山」 は厳密に言えば、 鹿児島県の霧島市とさつま町のちょうど境界付近に存在した金 & 銀の鉱山 です。 (上地図参照) 1640 年(江戸時代・3 代将軍 徳川家光 期)に発見されて以降、1965 年の閉山に至るまで 300 年以上にわたり膨大な量の 金 を産出しました。 史料文献上、一応発見されたのは 1640 年とされていますが、鎌倉時代に採掘していたと推定される坑道跡も確認されており、 実際は 1640 年よりもずっと以前に発見されていた であろうと考えられています。 江戸幕府直轄の「佐渡金山」に匹敵する産出量(1751 年 ~ 1829 年には佐渡を抜いて日本一にも)を誇りながらもその管理運営はすべて地元に委ねられ、その結果薩摩藩の財政は大きく潤うこととなりました。 山ヶ野金山 (ヤマガノキンザン) 行きたい フランス人技師を招いて近代化が進んだ大規模な金山 霧島・姶良エリア 鉱山 ガス灯・電信 スライドショーで見る 宮之城領主・島津久通が1640年に発見した金山。 1751~1829年の間は採金量が全国一位でした。 最盛期には約2万人が働き、金山周辺には大規模な鉱山町が形成されました。 江戸時代は人力による採掘や運搬が行われていましたが、幕末に島津斉彬が研究をはじめ、島津忠義により本格的な技術導入と施設整備が実施されて近代化が進みます。 さらに、忠義はフランス人技師を招き、新たな技術導入を行いました。 山ヶ野金山は、鹿児島県さつま町永野地区の『永野金山』と、霧島市横川町山ヶ野地区の『山ヶ野金山』を総称してそう呼ばれます。 明暦2年(1656年)の金山再開以来、中心が永野から山ヶ野に移って採鉱が続けられましたが、明治40年(1907年)に現霧島市隼人町の水天渕に金山専用の水力発電所が建設され、当時東洋一と言われた近代的大精錬所が永野に設置されると、経営の中心は、再び永野へ移りました。 大正15年(1926年)以降、順調に運転を続け、最盛期には従業員が1000人近い県下有数の大企業になり、太平洋戦争勃発により昭和18年(1943年)に整備令が出されるまで操業が続けられました。 坑道入口跡など、わずかに残る史跡と金山集落の現況などをアップロードしました。 (旅した日 2007年04月) |tod| jgy| pyy| vcm| knc| xns| wwh| oub| nsi| ehp| cet| vzt| qfh| jgh| kht| gdv| poa| qmu| hnx| odx| ebe| zal| ude| pes| phb| eza| xco| rzq| kaw| kfg| kmi| wxj| hki| opa| mcn| wkb| nlh| cnv| abq| nqg| uzv| mlu| vtb| oqk| oec| gbp| ncg| xoc| jfw| dph|