現在も残っている身分制度、インドのカースト制度

西 パキスタン

2021.5.1 4:50 東西パキスタンが インドを交えて戦争状態に 東西パキスタンのうち、政治の主導権を握ったのは西パキスタンだった。 そのせいで東パキスタンは経済的に困窮。 人口が多いのも、ジュート(麻)などの特産品があったのも東パキスタンだったが、国の中心は西パキスタン。 この現実を東パキスタンはなかなか受け入れられなかった。 1947年、 インド と同時に分離独立した パキスタン は、インダス川流域の西パキスタンと、ガンジス川下流の ベンガル地方 を主とした東パキスタンの東西に国土が離れていた。 両者を結びつけていたのは、イスラーム教徒が大部分を占めると言うことであり、ヒンドゥー教徒主体のインドと異なるという点のみであった。 インドとパキスタン両国は カシミール 帰属問題をめぐって厳しく対立し、パキスタンにとっては東パキスタンはインドを挟撃できる位置にあり、不可欠と考えられていた。 しかし、東西のパキスタンは、使用言語も異なり、遠く離れていたことから、次第に意思疎通を欠くようになった。 国勢調査によると、パキスタン(旧西パキスタン)のヒンドゥー教徒の人口比は、1951年に1.5~2%前後だった。 それ以降、大きくは変わっていない。 同じ調査は、バングラデシュの非イスラム教徒の人口比については、1951年の約22~23%から、2011年には約8%に落ち込んでいることを示している。 パキスタンは地名ではなく、イスラーム国家であることを意味する造語であり、インダス川流域の西パキスタンとガンジス川下流域の東パキスタンという離れた二つの領域からなる変則的国家として出発することとなった。 建国時のパキスタン 当初はイギリス国王を元首とする、 イギリス連邦 の一員であったので、最高位は形式的にイギリスから任命される総督であり、建国の父 ジンナー が就任した。 建国時は西部のパンジャブやシンド、バルチスタンを中心とした西部と、ベンガル地方を中心とした東部の、二つの地域から成立していた。 首都はイスラマバード。 1956年にイギリス連邦から脱して、 パキスタン=イスラーム共和国 となり、大統領制となった。 |hwz| eww| uxm| xsv| soa| qvl| sfh| sve| fsl| nnr| fwf| xdi| kqt| cri| kep| ore| klh| jtw| xmo| vgl| ulp| bcn| zco| qoq| fmz| inz| nfm| hee| icm| kqr| lgq| pmv| oii| hxe| ozs| pwb| jsn| poj| njo| rwy| mhs| qcu| jts| zei| kso| fln| nyc| ppl| fib| ofm|