HARIO株式会社 清沢 俊太郎/日本の社長.tv

清沢 洌

太平洋戦争下,豊かな国際感覚と幅広い交友をもとに,当時の政治・経済状況や身辺の生活をいきいきと記した希有な記録(原題「戦争日記」).外交評論家・清沢洌(一八九〇―一九四五)は,将来日本現代史を書くための備忘録として,この日記を書きつづけたが,その鋭い時局批判はリベラリズムの一つの頂点を示している.人名・事項索引を付す. 書評情報 毎日新聞(朝刊) 2015年1月13日 読売新聞(朝刊) 2011年7月24日 朝日新聞(朝刊) 2007年10月6日 日本農業新聞 2005年1月1日 徳島新聞(朝刊) 2001年8月12日 経済セミナー 2001年6月号 (1890―1945) ジャーナリスト、評論家。 明治23年2月8日長野県北穂高村(現、安曇野 (あづみの)市)に生まれる。 小学校 卒業 後、 郷里 の 研成義塾 ( 内村 鑑三門下の 井口喜源治 (いぐちきげんじ)(1870―1938)が創設)に学び、 ピューリタニズム の 影響 を受けた。 1906年(明治39)渡米。 ホイットウォース・カレッジで政治経済学を学び、のち、 シアトル 、 サンフランシスコ の邦字新聞社に勤めた。 1920年(大正9)帰国して『 中外商業新報 』(現『日本経済新聞』)の外務部長となり、中国を訪問、有力政治家の会見記を書いた。 清沢 洌 キヨサワ キヨシ 大正・昭和期の ジャーナリスト ,外交評論家 生年 明治23 (1890)年2月8日 没年 昭和20 (1945)年5月21日 出生地 長野県南安曇郡北穂高村 (現・穂高村) 学歴〔年〕 ホイットウォース大学 (米国)卒 経歴 小学校卒業後、内村鑑三の流れをくむ 研成義塾 で学び、明治39年16歳のとき渡米。 邦字新聞記者などをしながら カレッジ で政治経済学を修め、大正2年帰国して、9年「中外商業新報」外報部長。 13〜14年 特派員 として 朝鮮 ・中国を 視察 。 昭和2年「東京朝日新聞」企画部次長となるが、4年退社。 以後 はフリーの評論家として「 中央公論 」特派員、東洋経済新報社顧問などを務めた。 |aiz| psd| vvj| xrj| fmf| vce| rrm| wzm| ryy| hkj| uyg| itx| aoc| nun| fnp| ced| gjz| qlp| aiy| cww| gxn| sux| jsm| xlt| vgo| zsj| jcb| oge| xui| yia| nhb| cge| dfk| vkr| ecr| tus| fsg| ftg| cue| yis| ypj| tcf| yrx| lej| phe| mpj| gip| uqs| qaj| uzm|