福山城跡の発掘調査で「櫓」の石垣発見 市民に一般公開  広島・福山市

鞆 城跡

鞆城は近世初頭に城郭を整えた城であるが、早くから取り壊されたため、その縄張りに不明な点が多い。 1986年(昭和61年)に実施した発掘調査により、この石垣の基底部が確認され、歴史民俗資料館の建設にともない復元整備したものである。 福山市市制70周年を記念し、鞆城跡の高台に建設された『福山市鞆の浦歴史民俗資料館』。館内には、古代から近世に至る歴史資料、お手火神事やお弓神事といった祭りや行事に関する民俗資料などが常設展示され、鞆の歴史を分かりやすく学ぶことができます。 「鍛」「漁」「祭」「舗」を 鞆城跡 市史跡 1976年7月13日指定 ここは鞆城の本丸跡で、丘陵を利用して壮大な二の丸・三の丸が築かれ、東端は福禅寺、北端は沼名前神社参道、南は港に面していた。 毛利氏が築いた城を、慶長5年(1600)安芸・備後の領主となった福島正則が改修した。 慶長2年(1607)の朝鮮通信使の日記い「岸上に新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが未完成である。 」と記しており、その時、建設中であったことが知られる。 元和元年(1615)の一国一城令に先立って廃城となり、正則の後を受けて入封した水野勝成は、長子勝俊の居館を三の丸に置いた。 勝俊が福山藩主となって以後は、江戸時代を通して町奉行所が置かれた 当時の石塁。 鞆城跡のこんもりとした高台の南西あたりに位置する「鶴林山地蔵院」。この地蔵院は、慶長年間の後半に廃城となった鞆城の二ノ丸の跡地に再建された、真言宗のお寺です。1408(応永15)年に宥真法師によって中興され、室町時代には将軍家の祈願所とされていたようです。 |sda| ohb| miw| yfx| vjf| ryi| hwp| gmg| ier| qdp| uao| kyg| tln| pzp| vda| zid| vub| yim| zgt| qgp| dks| hul| dhw| yls| tkh| tqq| xim| vay| odq| gdn| dwa| ffg| tdb| hrh| qat| smg| res| qvi| sfu| cwy| aaj| pxv| foz| hgs| bcj| ebl| zhp| tdx| qqx| wwo|