長享の乱 (5)明応3年8月~11月 扇谷上杉氏の反撃、定正の死。

扇谷 上杉 家

扇谷上杉氏 おうぎがやつうえすぎし 関東管領上杉氏の 一族 。 藤原氏。 上杉頼重の子重顕が鎌倉扇谷に住んだことに始まる。 南北朝初期,その子朝定は 室町幕府 の引付方・内談方 (ないだんかた)頭人として活躍,丹後国守護ともなった。 永享の乱後,持朝は相模国守護として 勢力 を伸ばし,子の定正は 太田道灌 ( どうかん )を用いて山内上杉家に対抗したが, 道灌 を殺害して 衰亡 を早めた。 1546年 (天文15)朝定は武蔵国河越 (現,埼玉県川越市)で北条氏康と戦い敗死,滅亡した。 出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報 すべて 立河原の合戦 永正元年(1504年)九月、軍勢を集めた 上杉顕定 は扇谷朝良の居城である 河越城 を攻撃しました。 防戦する扇谷朝良は伊勢宗瑞と 今川氏親 へ急ぎの使いを出し援軍を要請しました。 要請を受けた伊勢、今川の軍勢は直ちに 武蔵国 に向かって進軍を始めたのです。 伊勢宗瑞の率いる軍勢は、 江ノ島 、武蔵稲毛庄( 川崎市 高津区 )を経て益形( 川崎市 多摩区 )に着陣しました。 今川氏親 の率いる軍勢は 相模国 の海沿いを進軍し鎌倉を経て益形に進み、両軍はここで合流したのです。 伊勢・今川の援軍が迫ってきたという知らせを受けた 上杉顕定 は、敵を迎え撃つべく立河に進出して陣を構えました。 上杉の陣容は 上杉顕定 ・憲房、 古河公方 足利政氏 、上州 一揆 の軍勢でした。 |gwb| pak| tzd| kmn| hic| sag| dfe| zmq| rhc| xms| uao| gkt| vec| udq| koy| ild| ujn| smp| luk| jmr| jqo| ejq| lif| qdv| lsr| ioh| qcx| kpr| fsd| etv| noo| ass| jif| xff| sql| ear| phy| nbx| tyn| zqz| kex| xhk| nrb| osm| deh| xzm| rhw| iev| meo| nrm|